生クリーム漬けの夜

 疲れた。それはもう、ものすごく疲れた。疲労が溜まった身体を引きずりながら大きくため息を吐く。
 今日はとことんついていない日だった。まず、朝目覚ましをセットし忘れたせいで遅刻ギリギリの時間に起き。なんとか一限に間に合う――とおもったらバス内でトラブルが発生し、結果バスは遅れ努力むなしく遅刻。慌てて家を出たせいで出す予定だった課題を家に忘れ教授に頭を下げることになり(なんとか明日朝いちばんで提出することを条件に許してもらえた)、仕切り直してお昼にしようと思いコンビニへ向かったら不幸にも好きなおにぎりもパンも売り切れ。夜にバイトへ向かえば急に一人欠勤になったことにより大忙し。あがる間際に面倒な常連客に絡まれ、予定より一時間も遅れて退勤。大まかに思い出すだけでこんなにもついていない。たぶん、もっと細かく言いだせばキリがないだろう。それぐらい、今日は運がなかった。

「あれ、遅かったねえ。おかえり」
「衛さん……ただいま」

 リビングへ行くと電子ピアノとにらめっこしている衛さんがいた。一時をとうに回っているというのにまだ起きていたのか、と驚く反面いまその顔が見れてよかったなと思った。一日の終わりに衛さんの顔を拝めただけで、今日の不幸が帳消しに――なることは決してないが、少しでも和らぐような気がする。ビバ・顔面の良い人。顔面の良い人は世界を救う。まだガンには効かないけどいずれ効くようになるに違いない。

「…………もしかしてだけど、今日、疲れてる?」

 無表情でそんなことを考えていたせいか、はたまた疲れが顔ににじみ出ていたのか。どちらかはわからないが、どうやら私がいつもと違うことに気付いた衛さんはそんなことを聞いてきた。首をこてんと傾げてあざとい。私は苦笑いしながら少しだけね、と返す。本当は思い切り疲れているわけだから七割くらい嘘になるんだろうけど、三割は本当だから大丈夫のはず。しかしそんな回答じゃ納得いかない様子の衛さんは少し思考して――すぐに何かひらめいたような表情になった。……なんだろう、嫌な予感がする。

「あのね、これはケンくんから聞いたんだけどね。ストレスって、三十秒ハグしたら三分の一くらい消えちゃうんだって!」
「へえ~」
「だから、はい!」

 ばっ。私の目の前までくれば両腕を大きく開いてきた。これはもしかして、いや、もしかしなくてもハグしろ、ということなのだろうか。えええ。困惑を隠せず思わず狼狽えてしまう。ハグをする機会は今まで(成り行きで)何度かあったとはいえ、こんな風にされるとさすがに恥ずかしい。だけど衛さんはそんな私なんてまるで知ったこっちゃないといわんばかりにドヤ顔で待ち構えている。さあ!さあ!と急かすような声が顔面から聞こえた。流石にここまでされて無視するのは僅かにある良心が痛む。私は覚悟を決めて、そっとその胸の中に飛び込んだ。
 ぎゅうう。背中に腕を回されたので、回し返す。ぽかぽかと温かいぬくもりが全身に染み渡る。衛さん、子ども体温だなあ。というか、思ったより体つきが良い。背中も広いし、ひょろひょろしているように感じられるのは雰囲気だけなのだろうか。あ、ていうかすごい。すんごくいい匂いする。シャンプー?柔軟剤?詳しくはわからないけれど、とにかく落ち着く匂いで、私好みだった。

「……ね、どうかな? ストレス、少しでも減った?」

 衛さんに声をかけられ、そこでようやくもうとっくに三十秒経っていたことに気付いた。三十秒って、思ったより短い。
 結果として、効果があったかどうかはよくわからなかった。というか今更かもしれないがストレスが減ったかどうかなんて自分でわかるものじゃない気がする。
 ――だけど。だけど、この体制がすごく心地よくて、何かが満たされるような感覚があることだけはわかったから。

「……まだよくわかんない、から――もう少しだけ、このままでもいい?」

 自分でも、適当に理由つけてるだけだなという自覚はあった。けれど、衛さんはやさしくやわらかく笑ってくれて、「きみのためなら、いくらでも」ともう一度包み込むように抱きしめてくれた。本当に、彼は私を甘やかすのが上手だ。すり、とその胸板に頭を擦り付けて私はそのぬくもりを堪能した。


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