寂しさはいつか痛みだす
「シロくん」
彼女は僕のことをそう呼ぶ。犬みたいで嫌だ、と言っても聞かず、ずっと僕のことを「シロくん」と呼んでいた。頬を緩めて、楽しそうに。最初は嫌悪感しかなかったのに、気付けば僕を呼ぶ彼女の声が嫌いではなくなっていた。気付けば、その言葉は心地よいものとなっていた。
△▽△
「あのね、わたし、ボーダーやめるんだ」
人の少ない夕方のラウンジで、コーヒーを手にしながら彼女は小声でそう言った。その声はあまりにもか細く、僕でさえも聞き逃すところだった。僕はひとくち、コーヒーに口をつける。
「シロくんには先に言っておこうと思って。やったねシロくん、君がこの事実を知った最初の人間だよ」
「別に嬉しくないんだけど」
「そんなこと言わないでよ、わたしとシロくんの仲じゃない」
けらけらと笑う彼女。能天気な顔に、なぜだか無性にイラっとした。
それに、僕らはそんなに大層な関係ではない。同じ学校の、同じクラスの、同じボーダーの、同じポジションなだけ。ただ、他人より少しだけ話す機会が多いだけ。それ以上でも、それ以下でもない。それなのに、なぜ彼女はそんな重要なことを僕に真っ先に伝えたのだろうか。
「ねえ、シロくん」
「……なに?」
「シロくんは……さみしい? わたしがいなくなったら」
「別に。大して何も思わないんじゃない?」
「うわーひどいなぁ」
わたしはね、さみしいよ。シロくんを忘れたくない。
彼女は目を伏せてそう言った。少しだけ、目が潤んでるように見えた。声も震えていて、嫌に耳に残った。
ボーダーを辞める際、記憶封印装置を使ってボーダーに関する記憶を封印する必要がある。機密情報の漏洩を防ぐためだ。だから、ボーダーで関わって仲良くなった人がいたとしても、記憶を封印されると、その人にとってただの他人へと戻ってしまうのだ。恐らく、彼女はこのことを言っているのだろう。
「……別に僕ら、そこまで仲良いわけでもないじゃん。それに、そっちはさみしいと思っても忘れちゃうんでしょう?」
失言をした、と気付いたのは彼女のひどく傷付いた表情を見た後だった。僕が少しフォローしようと思って口を開くが、その前に彼女は「そうだよね、変なこと聞いてごめんね。わたしもう行くね」とだけ言ってラウンジを去ってしまった。最後に見えた彼女の横顔には一筋の涙が流れていた。
僕は、色んなことに困惑していた。まず、失言だと思ったこと。なぜそんなことを思ったのか。別に、本当のことを言っただけではないか。次にフォローしようとしたこと。悪態を吐くことはしょっちゅうだが、フォローしようとなんて一度もしたことがないし考えたこともなかった。なのに、なぜ彼女にフォローしようとしたのか。……そして、最後に見えた横顔見たとき、なぜか心臓あたりがズキンと傷んだこと。あの痛みは、なんだったのだろうか。僕は、あまりにも困惑していて、歌川に声をかけられるまで放心状態だった。話し始めた頃暖かったコーヒーは、とっくに冷めていた。
△▽△
あのあと、彼女は本当にボーダーを辞めた。あの日から1週間後のことだった。色んな人に慕われていた彼女が辞めたことは結構影響があったらしく、ボーダー内では彼女の話題はタブーと化していた。
僕はというと、あの日の疑問の答えを未だに見つけられないでいた。胸の中にもやもやとした何かが溜まっていて、気持ち悪い。どこかイライラとしながら廊下を歩いていたら、誰かとぶつかってしまった。
「うわっ、」
「っ、」
彼女だった。あの日と変わらない、黒髪のおさげで、制服を着た彼女。僕とぶつかってバランスを崩したのか、彼女の名前が書かれたノートと教科書が重力に従って落ちた。
「ご、ごめんね。菊地原くん」
「ごめんねシロくん」
脳裏に、『前』の彼女がチラつく。なんとも言えない感情が、僕の心を支配する。
彼女は教科書とノートをさっさと拾い上げ、小走りで去っていった。その姿は、あの日を彷彿とさせて。
「ごめん」
あの日、思ってもないことを言って。あの日、傷付けてしまって。
小声で呟いたその声は、誰にも届かず空気に融けた。
title たとえば僕が
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