熟したプラムは地に落ちる
疲れた。本当に疲れた。はあ、と重い溜息を吐く。今日捕らえろと命じられた亡者は、ちょこまかと逃げ足がかなり早かったり、追い詰めて説得しようにも話を聞かず、こちらへ攻撃してきたり。最終的に返り討ちにして冥府へ送ったものの、とにかく面倒くさかったのだ。大人しく捕まればいいものの、このやろう。なんだかもう、肋角さんに報告することすら面倒になってきてしまった。その後のことがこわいから後回しになんて絶対しないけど。あーしんどい。もうひとつ溜息をつこうとして、「?」と大好きな声が聞こえた。思わずぱっと顔をあげる。
「佐疫!」
「お疲れみたいだね。仕事帰り?」
「そー。もーへとへとだよぉ」
「お疲れ様」
よしよし、と褒めてくれるように頭を撫でる佐疫。それだけで、先ほど出そうになっていた溜息なんて吹っ飛んでしまった。思わず頬が緩む。佐疫癒し。マジ癒し。大天使。そばにいるだけでなんか安心するんだよなぁ。
そこにじいっとこちらを見つめる視線がひとつ。まあ、目の前の佐疫からなんだけど。何か顔についてたかなーなんて思ってたらおもむろにハンカチをポケットから取り出し、私の頬に押しつけるように拭った。
「佐疫?」
「もう、頬に血が付いてたよ。女の子なんだからそれくらい気にしなさい。」
どうやら、亡者の返り血が頬についたままだったらしい。鏡も見てなかったし、気付かなかった。肋角さんに報告する前でよかった、なんか恥ずかしいし。
「ありがとー、佐疫」
「ていうか、は身だしなみに気を使わなすぎなんだよ。手を洗った後はハンカチ使わず制服で拭こうとするし、そもそもハンカチ持ち歩いてないし……」
うわ、出た。佐疫のおかん気質。ガミガミと説教を続ける佐疫に、少しばかりげんなりする。これさえなければ、佐疫は最高なのになぁ。説教を聞く気になれず、じいっと佐疫の顔を観察してみる。透き通るコバルトブルーの瞳はいつみても綺麗だ。よく見ると睫毛も長いし、髪もさらさら。圧倒的女子力である。きっと私じゃ敵わないだろう。
「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
「あーはいはい聞いてますぅ」
「あのね、そんな分かりやすい嘘ついたって…」
「はいはいゴメンナサイ」
ほんと、佐疫ってばお母さんみたい。なんて溢せば、佐疫は顔を顰めた。
いやだって、本当にお母さんみたいなんだもん。普通の同僚の男子なら、ここまで気にしないだろうし。……まあ、うちの職場に普通の同僚の男子なんていないけど。
「」
「なに? って、うわ!?」
一言、名前を呼ばれたかと思えば小さく押され、壁際に追い込まれる。そして壁に手をつく佐疫。な、なにこの状況。も、もしかしてこれは、現世で言う、『壁ドン』というヤツなのでは。そう認識した途端、カッと顔が熱くなるのを感じる。とんでもなく恥ずかしい。
「、俺だって男だよ? 」
「え、知っ、てるよ?」
「嘘。知ってたら、俺のことお母さん扱いなんてしないよね。だから、」
俺が男だって、ちゃんと理解させてあげる。
ただでさえ近い佐疫との距離が、どんどん無くなって行く。近付く佐疫の顔。恥ずかしくて、顔を逸らすが、「こっち向いて」と顎に手をかけられ無理やり佐疫の方に向けさせられる。まさか女子のときめく男子の行動No.2の『顎クイ』までも佐疫にやられるなんて(ちなみにNo.1は壁ドンである(獄都調べ))。
気付けば、佐疫との距離は目と鼻の先。少しでも動けば、き、キスを、されてしまいそうだ。佐疫の表情は、いつもの優しい顔ではなくどこか怪しげな雰囲気を持っていて……間違いなく、男の顔だった。あ、う、と喘ぐことしか出来ない私の頭は既にショートしてしまっていて。
「…、」
「う、ウワアアアーーーー!!!!」
「うぐっ!?」
耳元で名前を囁かれ、あまりの恥ずかしさに足を振り上げる。佐疫の股の間……つまりは股間にクリーンヒットする私の足。うずくまる佐疫。よろけて少し離れたのをいいことに、私は走って距離をとった。
「さ、ささ、佐疫のバカ!ヘンタイ!痴漢!!」
それだけ言い残し、私は全速力で逃げる。それはもう、今までで一番のスピードで。
佐疫のばか、どうしてくれるんだ。真っ赤なりんごのように染まった頬は、しばらく冷めそうにない。肋角さんへの仕事の報告はまた少し後になりそうだ。
(……次佐疫に会ったとき、どんな顔をすればいいんだ)
ばくばくと心臓がうるさい。思った以上に佐疫の行動には破壊力があったようで。少なくとも今後は、佐疫のことをちゃんと異性として意識しなければならなそうだ。
title さよならシャンソン
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