わたしのための魔法

 掌に収まるわたし専用の魔法。そこにあるだけで、つけるだけで、彼のことを思い出して幸せになれる。そして、同時に恥ずかしくて堪らなくなる、ひみつの魔法。

「口紅を贈る意味は、『キスで返して』って意味らしいよ」

 菅野くんの代わりに渡してくれた友人に告げられた言葉が、脳内で何度も反響する。今日はプレゼントを受け取って以来はじめて菅野くんに会う日。どんな顔して会えばいいのか、どうお返しすればいいのか。ぐるぐると、様々な思考が脳みそをぐちゃぐちゃに掻き乱していく。そしてついに考えはまとまらないまま彼の帰宅を告げる音が鳴った。慌てて立ち上がって、ぱたぱたと足音を立てながら玄関へと向かえば既に靴を脱ぎ始めている彼。

「お、かえりなさい、菅野くん」
「ん、ただいま。……あ、」

 詰まりながらも笑顔で出迎えれば、破顔しながらこちらへ歩み寄る菅野くん。と思ったら急に彼は私の顔をじいっと見つめだした。もしかして、意識しすぎて変な顔をしていただろうか。思わず視線を逸らしながら「な、なに?」と聞いてみる。

「いや、あのさ。もしかしてだけど……いま、つけてくれてる?」

 何を指しているかは、すぐにわかった。わたしは控えめにこくんと頷く。

「やっぱり。その色、すごい似合ってる」

 かわいい、とストレートな褒め言葉を告げられれば思わずかあ、と顔が赤くなるのを感じる。目を合わせるのも恥ずかしくて視線を彷徨わせながらも「ありがとう」と小さくお礼を言えば満足そうな笑みを浮かべて優しく髪を撫でた。
 ふと、もしかしたら菅野くんは口紅を贈る意味なんて知らないかもしれないと気付いた。そうだ、菅野くんは純粋にわたしに似合うと思って口紅を買ってくれただけなのかもしれない。そう思えば気は楽になるはずなのに。それでもなぜかわたしは、このまま無かったことにするのはどうも落ち着かなくて。

「菅野っ、くん!」

 そのままリビングへと向かおうとする菅野くんを勢いよく引き止めて、そのままぐっと背伸びをする。そして、頬に唇をのせた。本当に触れるだけの、柔らかなキス。思い返してみればわたしからちゃんとキスをしたのは初めてかもしれない。恥ずかしくて、頬が燃えるように熱くなって、目を合わせないように視線を床に向けながら「口紅の、お返し……です」と消え入りそうな声で呟く。
 菅野くんは、動かない。何も言わない。下を向いているためどんな表情をしているかもわからない。なんだか気まずくて、一瞬だけ、本当に一瞬だけその表情を覗こうと目線を上げた。瞬間、ぱちりと目が合う。嬉しそうににやけた瞳がわたしを捉えていて、気付けばそのまま思いきり抱き寄せられていた。「あーもう、かわいすぎ」なんて声が鼓膜を揺らすけれど、わたしはそれどころではない。ドッドッと早まる鼓動がうるさくてたまらない。

「でもだめ、これじゃ合格点はあげられないかなー」
「、え?」

 わたしを拘束していた腕が緩まると、自然と視線が絡まる。そのまま菅野くんは自身の口元を指先で触れて。

「こっち、でしょ」

 その唇は綺麗な弧を描いていた。色っぽいその表情と動作に大きく心臓が跳ねる。ほら、もう一度。そう言うように今度は私の唇をなぞる。嫌でも騒がしくなる心臓の音がどうか伝わりませんように、なんて考えながらわたしは恐る恐る唇を重ねたのだった。

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